昭和51年01月21日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのはありがたいと心得て信心せよ。」
もちろんここでは、金やら物やらで助けるというのではなくて、信心によって助ける事ができる、と言う事が有り難いとこころえて、と言う事だと思うのです。物やら金で助ける。これは信心がなかっても出来る事です。ですから信心によって人が助けられる、と言う事が有り難いと心得て信心せよと。そこのところが一番有り難い、大切な事としていけと言うわけです。
昨日「土の民」でしたかね、教祖様の事と、それから東京の日本橋教会の初代教会長先生の事が書いてある、ご本を少し読まさせて頂いてんですけれども。京都の方で殆ど無学のお方です。家でおき屋をなさっておられた。芸者ですね。そういう華流界でのまぁ雰囲気を身に付けた御方でもあったらしい。大変、お年を取られても、まぁきれいな、すっきりとしたふうだったと言う事です。単身ぜんぜん身よりもない東京の、しかもど真中である日本橋の布教であります。
そちらで人がどんどんまぁ助かった訳ですけれども。不思議な事に、その日本橋教会のお風呂に入らせて頂くと、みんな病人が助かったと言う事が書いてあります。合楽のお風呂で人が助かったと言う事は、まだ聞いた事がない。だからそういうのは、どうもおかしいと言う事はないね。確かに私自身が合楽では日々神様からこうして頂く御理解によって、その御理解を行ずる事、その私の信心を支えて下さるのは御理解です。だから合楽では御理解を頂いて心が開ける。
合楽では御理解を頂いて、例えばお話を頂き頂き痛みが止まったり、目があいたりちんばが立ったりというおかげを頂くわけです。ね。昨日日田の毎日お参りをしてみえる御方です。東京に息子さんが大学に行った。それで今合楽で「大払信行」の徹底と言う事が言われるので、ご自分達もご夫婦で、また、息子さん達夫婦もやっぱり時々、参ってまいりますが、夫婦でその大払信行に取り組まさせて頂いて。
昨日も昨日の言葉です。昨日の大払信行を終わらせて頂いて、こたつに入らせて頂いた所に、東京の息子さんから電話がかかってきて「僕今大払信行を五巻、そうじょうさせてもろうて、大払信行が終わった所だ。」とこういう。「いや、お父さん達も今、終わったてからこたつに入ったばっかりだ。」と私はそういうお届けをさせて頂きよったら胸がもうなんか知らん胸が熱うなってきた。はぁこういうふうにして親子が交流すると言う事がね、親子の助かりだなぁと私は思うた。
信心によって親子が交流すると言う事、そこに親子の助かりを感じます。だから助かると言う事はどう言う事かと言うと「病気が治りました、お願いしておった事が成就しました。」と言う事が、助かるというのではなくて、神様と私共がです交流しておる時が助かっておる時だと言う事です。信心でいう助かりというのはね。例えば病気や様々な難儀な問題。一生懸命大払信行を例えばさせて頂いておる。
一生懸命信心修行をさせてもらっておる。お話を頂いておるうちに「はぁ、これは不平不足どもいうだんの事じゃない。お礼を申し上げなければならない事だ。」と心が開けてくるとするか。もうそこには私は神様との交流、そこに「今あなたが助かった」と言う事が言えると思う。私は今日は人が助かると言う事は、また助けるということは、物やら金でも助けられます。まぁ様々な助けがございましょう。
成程、例えば「水に溺れておるのをね、人間は助ける事が出来る」と仰しゃるように、溺れよる人を救い助けてあげると言う事はできます。けれどもこれは信心がなくても出来る事です。だからそういう、私はただ端的な助かりというのではなくて、心が助かると言う事。それはどう言う事かというと、神様と私共が交流しておる時、通うておる時ね。それはどんなに苦しいことやら、難儀な問題の中にあってもです「神様にお礼を申し上げねばならない事だ。」と心が開けた時にすでに助かっておる時。
今日はここん所を皆さんね、だからなぜ神様と交流しなければ、助かりが本当の助かりがないかと言う事をひとつ、今日は分かって頂き、また体験して頂きたいと思うんです。「人の難儀を助けるのは有り難いと心得て信心せよ」と仰しゃる、信心によって人が助かると言う事は、私自身が神様との交流、そして、そこに自分の助かりという、そういうものがあって初めて人を信心によって助けると言う事が出来ると思うです。
日本橋教会の初代教会長である、女の身でしかも無学の御方がです、いかに神様と交流しておられたか。いかにお風呂をそれこそ、神様のお恵みとして頂きぬかれておられたか、と言う事を感じずにはおられません。それこそひとすくいのお水を、お湯の水をおし頂いての信心でおわりになっただろうと思われます。お話もできんなら、字も書ききんなさらん。けれども自分がおかげを受けておられる事を話なさねば。
自分が一番有り難いと思うておし頂いておる、そのお風呂によって、いわば医者の見放した病人がどんどん助かっていって、あの日本橋教会の御比例になったと言う事です。私に自身が日々頂く神様の御理解を頂いて、今日また改めて分からせて頂く事は、神様に交流しておる時に「私が助っておるんだ」と言う事。親子の交流がね、そこにいわば信行終わって、終わった所には「私達も今終わって、炬燵の入ったばっかりだ」。そこにです親子の助かりを感ずるでしょうがね。
「親達、二人とも元気である」と子供は安心するでしょう。こういう信心を子供が続けていく限り、いくら遠くに離れておっても心配はいらん、という助かりがそこにあるわけです。そういう心がまた次のおかげを呼ばないはずありません。今合楽で言われる大払信行というのは、「なんのために大払信行をしなければならないか」と。皆さんひとつ思うて見て下さい。「なんのために大払信行をさせて頂くか」と。
第一には心が清まります。大払信行を本気で続けさせて貰いよりますと、自分にも我情もなからなければ我欲もないと。ただあれも頼まんならん、これも願わんならんというのじゃなくて、ただ無条件に金光様の御信心を頂いとる者として、当然の事としての勤めをさせて頂いておれば、自分の心ん中が有り難とうなていく。神様の前を離れられないぐらいに交流が始まる。
そこまでの私は大払信行にならないきゃいけないと思います。これが一つ。次にはねこれを続けていく内にです、信心辛抱の力ができると言う事であります。だからやったりやらなかったりでは大払信行の値打ちはないと言う事です。「今夜は遅いかけんご無礼しよう」と言った様な事では。それこそ行のごと、これを続けさせてもらうというね、そこに信心辛抱力ができる。
そういうです氏子の心が清まり、信心辛抱力できる、そういう例えば大払を神様がお受けになられる事になって、今度は神様が活力素を得られる事になる。神様が生き生きとしてみえる。ね。皆さんの家庭でもね、それを感じなされるだろうと思うです。神様が生き生きとしてみえる。お願をするとお願いをした一言一言にその神様が受返事して下さる様に、おいさみもって答えて下さった。
だから是をどうでも、やりぬかせて頂くという一心を貫くと言う事が、信人辛抱の徳を受ける事であると同時に心が清まる。清まったその心で神様へ向かうのですから、神様が生き生きとしてみえる。大払信行にはこの事だけは皆さん、よう覚えておって「なぜ大払信行をさせてもらうのか」まず自分に信心辛抱力を作ると言う事。自分自身の心が例え、その時だけでも清まる事ができると言う事。しかも清まると言う事が、無心になると言う事が、こんなにも有り難いもんだという体験をしていく事。
そこに神様が生き生きとしてみえると言う事。そこに生き生きとした心と、生き生きとした神様のお心とが交流する。そこにいよいよ、私共が助かって行く所の手立てというものが、本当のものになっていく。私共が助かると言う事。それは信心のよって助かると言う事。助けると言う事は、信心のない者でも、いわば色んな面で助ける事ができる。援助してあげる事が出来る。けどそれはね私は。
人をこの76節からいう「人を助ける」と言う事にはならない。「人の難儀を助けるのが有り難いと心得て信心せよ」というのですから。信心によって助かる。まぁいうならばお導きをして、その方に助かって下さる。それも助かる。けれどもようは私共自身が神様との交流が計られるようになりその信心の喜びがです、人を助ける働きともなってくる。そういう働きを教祖様は教えておられるのだと。
日は思わせてもらうのです。助かるとは神様と私共が交流しておる時にすでに助かっておるのだ。だから毎日皆さんは大払信行によって助かった一時というものを味おうておられるわけであります、だからその働きの交流の時間を愈々、一時間よりも二時間と言う様に、助かる時間を愈々広げて行く所のおかげを頂かなならんと言う事が分かります。そういうものだと心得て、愈々信心を進めていかなければいけません。
どうぞ。